「コンピュータは、むずかしすぎて使えない!」を改めて読む

コンピュータは、むずかしすぎて使えない!」という本があります。ペルソナの提唱者として有名なアラン・クーパー (Alan Cooper) 氏の古典的名著で、日常 (仕事や生活) の様々な場面でソフトウェアテクノロジーによる道具が浸透している中、テクノロジーに詳しくない大半のユーザーにとっても使いやすくなるような、操作 (インタラクション) のデザインの重要性を説いた書籍です。

書籍「コンピュータは、むずかしすぎて使えない!」

1999年の出版 (日本語訳の出版は2000年) で、表現がやや過激であったり (なにせ原題が「The Inmates are Running the Asylum」という...)、内容面で古くなっている部分もありますが、「目標駆動形デザイン (Goal-Directed Design)」や「ペルソナ / シナリオ法」の原典とも言える本書は、今読んでも示唆に富んでいます。

この記事では、改めて本書に目を通してみて、個人的に今なお参考にできそうだと思った内容を、メモとしてまとめます。

機能は少ないほうがよい

クーパー氏は、ソフトウェアの機能が多すぎるのは問題で、かえって、本当に必要な機能へのアクセス性をかえって阻害してしまうと説いています。

機能には、プラスの性質もあるけれど、同じくらい強いマイナスの性質だってあるのだ。それが引き起こすデザイン上の最大の問題は、「ひょっとしたらもしかして便利かもしれない」という機能が、おそらくまちがいなく便利だという少数の機能を覆い隠してしまうということだ。(P.85)

ユーザーからのいちばん多い苦情は、「いろんなオプションがインターフェイスにぶちこまれすぎていて、何の区別もないせいでソフトが使いにくい」というものなのだ。(P.181)

そのうえで、機能は操作負荷は、「少ないほど豊か (Less is More)」であると説いています。

インターフェイスはどんなにクールでも、少ないほうが優れているのだ。つまり繰り返すと、ユーザーの目に入るものが少なければ少ないほど、デザイナーはいい仕事をしたことになる。(P.369)

インターフェイスを減らせといっても、機能を減らせということではない — ただし、減らしたほうがいい場合もあるけれど。わたしが言いたいのは、ユーザーはどの仕事をこなすにしても、必要最低限以上プログラムを操作する必要はないはずだ、ということだ。(P.373)

ユーザーのインタラクション (操作) にフォーカスしてデザインする

クーパー氏は、ソフトウェア製品の開発プロセスにおいて、プログラミングの都合を優先したデザインがはびこっていると指摘し、そうではなく、ユーザーのインタラクション (操作) にフォーカスしたデザインを優先すべき、と説いています。

本書では、訳語として「操作デザイン」という用語が使われていまが、ここで言う「操作」とは、おそらく、operation ではなく interaction だと思われます。

エンジニアの支配する技術の世界では、この内部のプログラムデザインがすべてを支配し、エンドユーザーのためになる操作デザインは、すべてが終わってから暇があれば考える、という形にしかなっていない。(中略) この優先順位を変えることだ。そして操作デザインを、ソフトウェアベースの製品の創造で真っ先に考えるべきことにすることである。(P.37)

操作デザイナーは、ユーザーが何をしたいかに基づいて判断を下す。即席デザイナーは、それ以外のあれこれ勝手な基準で判断をくだす。個人的な趣味、馴染み、未知への恐怖、...(中略)... いちばん多いのは、「プログラマたちが一番作りやすいもの」という基準に基づく判断だ。(P.39)

デザインは、プログラミング以前に終わっていないと、絶対に大した影響は持てない。... (中略) ... (著者註 : デザインの後付は)「あんたが地面にたたきつけられる前にはパラシュートを縫い上げておくよ」というものだ。勇敢このうえないけれど、うまくいったのは見たためしがない。(P.95)

操作デザイン手法の訓練を受けていない人物は、だれでも自分をベースにしたデザインに走ってしまう。自分自身がユーザーだと考えてしまうのだ。(P.155)

(インタラクティブなシステムを作るには) 開発手法を改善して、それを最終的に使う人間たちに主な焦点があたるようにしなくてはならない。(P.221)

よく、見てくれはいいのに — 審美的には美しいのに — 機能や操作性が不十分な製品にでくわす。これは、製品がデザインされていないからではない。むしろ、そのデザインがビジュアルデザイナーによる視覚的なデザインだけで、知覚的なずれを克服するツールを持った操作デザイナーがいなかったからだ。(P.395)

操作デザイナーは、プログラマたちが十分にそのデザインを作れると期待できるような仕様書を文書の形で作らなくてはならない。操作デザイナーはマーケティングに、ユーザーについて説明してその製品がかれらのニーズをどう満たすかというはっきりと書かれた記述を提示しなくてはならない。(P.435)

「リテラシー」という言葉を安易に使っていないか?

私たちはつい、「インターネットリテラシー」「ウェブのリテラシー」という具合に、ユーザーをリテラシーの有無で分けて捉えがちですが、クーパー氏はこの「リテラシー」という言葉を安易に使うのはよくないと説いています。たしかに、「リテラシー」という言葉によって、テクノロジーに詳しくない大半のユーザーを無意識のうちに軽視してしまう恐れがあるかもしれません (自戒を込めて...)。

われわれ業界人は、「コンピュータリテラシー」ということばをずいぶん気楽に使う。コンピュータを使うには、みんなそれなりの根本的な訓練を受ける必要があると想定するわけだ。... (中略) ...

(これには) 陰湿な影響がある。社会の中で、持てる者と持たざる者との間に分割線をひいてしまうのだ。 (P.65)

コンピュータリテラシーということばは、社会経済的なアパルトヘイトの言い換えになってくる。コンピュータリテラシーというのは、われわれの社会を残酷に二極化してしまうキーとなる用語なのだ。(P.67)

漠然とした「ユーザー」ではなく厳密に定義された「ペルソナ」に向けてデザインする

ユーザーのインタラクション (操作) にフォーカスしてデザインするための有効なツールとして、クーパー氏は「ペルソナ」を提唱しています。漠然と「ユーザー」に向けてデザインするという姿勢では、そのユーザー像は結局、ステークホルダー各々の都合で「ゴム」のように歪められ続けてしまい、実際にユーザーの役に立つようなデザインにはつながりません。そうではなく、より厳密で具体的に定義された「ペルソナの●●さん」に向けてデザインすることが重要であると説いています。

仮想ユーザーを想定して、それを目標にデザインをする。この仮想ユーザーは「ペルソナ」と呼ばれて、よい操作デザインに必須の基盤なのだ。

ペルソナというのは本物の人間ではないけれど、デザインのプロセスの過程で本物の人間のかわりになるものだ。それは実際のユーザーの仮説的な原型だ。想像上の存在ではあるけれど、それはきわめて厳密かつ詳細に定義づけられる。(P. 225)

幅広いユーザー層を満足させる製品をつくろうとしたら、理屈からいえば、機能をなるべく多くして、最大の人間に対応できるようにするべきだということになる。この理屈はまちがっている。たった一人のためにデザインしたほうが、ずっと成功するのだ。(P.227)

筆者註 : 機能を増やしてあらゆるユーザーのニーズを満たそうとしたデザインに対する揶揄として、本書では、ミニバンとトラックとスポーツカーを合成したような自動車の絵が掲載されています。
ミニバンとトラックとスポーツカーを合成したような自動車の絵。
アラン・クーパー「コンピュータは、むずかしすぎて使えない!」(翔泳社、2000年)
P.227 より引用
ミニバンとトラックとスポーツカーを合成したような自動車の絵

ユーザーを満足させるのがわれわれの目標だけれど、「ユーザー」という用語は問題だ。あまりにあいまいなので使いものにならない。... (中略) ...

「ユーザー」ということばを聞くたびに、「ゴムのユーザー」というふうにわたしには聞こえる。ゴムのユーザーはからだを曲げたりのばしたりして、その時々のニーズ (筆者注 : 造り手側の都合や妄想) に適応しなくてはならない。でもわれわれの目標は、ユーザーのほうのニーズにあわせて、ソフトがからだを曲げたりのばしたりしてくれるようにデザインすることだ。(P.231)

「ゴムのユーザー」の絵。
アラン・クーパー「コンピュータは、むずかしすぎて使えない!」(翔泳社、2000年)
P.231 より引用
「ゴムのユーザー」の絵

われわれのデザインプロセスでは「ユーザー」というのは使わない。もっと厳密な個人を考える。それがペルソナだ。(P.232)

ペルソナは厳密にすればするほど、デザインツールとしても有効性をます。なぜかというと、厳密になってくるほどペルソナはゴムではなくなるからだ。(P.233)

あらゆるブレーンストーミング会議でも、あらゆる詳細デザイン会議でも、デザイナーたちは全員、このキャスト文書 (筆者注 : ペルソナを文書化したもの) を目の前に置いている。顧客が参加するうちあわせでは、この紙を追加で焼いて、相手に渡す。... (中略) ...

目標は、このペルソナを避けがたいものにすることだ。とても大事だから、みんなに無理にでものみこんでもらうのだ。

よいデザインがあっても、それをユーザーペルソナのことばで表現しなければ役には立たない。すぐに「ユーザーは」といった表現が出てきて、特定の原型的なユーザーだけにしぼるという、苦労して勝ち取ったものが水の泡になる。(P.252)

ユーザーの「ゴール」を正しく見極める (「タスク」と混同しない)

クーパー氏は「ペルソナ」による「目標駆動形デザイン (Goal-Directed Design)」を提唱していますが、その「目標」とは、ユーザーが最終的に成し遂げたいことを意味しています。「目標」は基本的に、テクノロジーが進化しても変わることがありません。一方で、「目標」達成のための手段 (本書では「仕事」という訳語で表現されています) はその時どきのテクノロジーや社会環境などによって変わってきます。「目標 (ゴール)」と「仕事 (タスク)」を混同しないよう、注意する必要があります。

目標駆動形デザインは、ユーザーのペルソナとその目標定義から始まる。

...(中略)... ペルソナと目標はコインの両面のように不可分の関係にある。ペルソナは目標を達成したいと思っていて、目標はペルソナに意味を与えるべく存在している。(P.269)

目標と仕事 (筆者注 : ゴールとタスク) は違う。目標は最終状態であり、仕事はその目標を達成するための中間プロセスだ。仕事と目標を混乱しないのはだいじだけれど、混乱しがちだ。(P.271)

仕事と目標のちがいをみわける簡単な方法がある。仕事は技術の変化とともに変わるけれど、目標はありがたいことにとても安定している。(P.271)

目標は安定している。仕事は変わりやすい。だから、仕事のためにデザインしてもしっくりこないこともあるけれど、目標のためにデザインするのはいつもぴったりくる。(P.272)

ユーザー行動シナリオの優先度を意識する

クーパー氏は、ペルソナとして定義されたユーザーの行動シナリオについて、「日常利用シナリオ」「必須利用シナリオ」「エッジケースシナリオ」に大別できるとしています。UI 設計においては、「日常利用シナリオ」に基づく頻繁に使用される機能をわかりやすくフィーチャーする (それ以外の機能は露出を抑えめにする) など、適切にバランスを取ることで、大半のユーザーが必要とする機能へのアクセス性を阻害しないようにすることが重要です。

日常利用シナリオはいちばん役に立つ重要なシナリオだ。これはユーザーが、通常はいちばんひんぱんに実施する主要行動となる。... (中略) ...

日常利用シナリオは、いちばん堅牢な操作サポートが必要だ。 (P.332)

必須利用シナリオは、実施されなくてはならないアクションすべてを含むが、ひんぱんに行われるものは含まない。... (中略) ...

必須利用シナリオもまた、堅牢な教育手法を必要とする。(P.333)

(エッジケースは) 製品のデザインではほぼ無視してかまわない。
だからといって、この機能をプログラムから取り除いてかまわないわけではないけれど、でもそれに必要な操作はラフなデザインにしておいて、インターフェイスの背景に押しやってしまえるということではある。(P.334)

日常利用シナリオで必要なコントロールやデータはインターフェイスの目立つところにおいて、それ以外のものはふつうは見えない二次的な場所に移してしまえばいいのだ。(P.336)

永遠の中級者

ソフトウェア製品を企画、開発する際、マーケティング担当者は初心者に向けて、開発者は上級者に向けて、それぞれ無意識的に志向する立場に陥りやすいものです。クーパー氏は、実際のユーザーはソフトウェアの利用を通じて多くは初心者から中級者にステップアップすること、またほとんどの中級者ユーザーは上級者にステップアップする動機を持つわけではないことから、「永遠の中級者」をターゲットとするマインドセットを持つべきであると説いています。

ほとんどのユーザーは、初心者でもなければエキスパートでもない。かれらは永遠の中級者なのだ。(P.337)

プログラマたちの求める操作は、エキスパートだけに向けたもので、マーケティング担当たちは、初心者だけに向けた操作を求めるけれど、最大で一番安定していて一番重要なユーザー層である永遠の中級者たちは、無視されているのだ。(P.340)

「顧客駆動」ではなくデザイナーが主導権と責任を持つ

「顧客の声を聞く」という言葉は耳触りがよいですが、顧客の言うがままに機能を追加したり変更したりする、いわば「顧客駆動デザイン」に陥らないようにすることが重要です。クーパー氏は、ユーザーの声を鵜呑みにしないこと、最終的な品質の責任はデザイナーが担うべきであること、と説いています。

顧客に耳を傾けるのと、顧客の言うとおりにするのとでは、えらいちがいだ。
耳を傾けるのはよいことだ。聞いたことに、自分なりのフィルタをかけるという意味がこもっている。言うとおりにするのはまずい。顧客の言うがままになっているという意味になるからだ。(P.405)

顧客は、どんなに善意の人だろうと、あなたの製品を単一の概念的な全体として考える力を持っていない。...(中略)... かれらはいろいろと矛盾した要求をつきつけてはくるけれど、でもどれにしたがうべきか、正しい判断をあなたがするよう期待しているのだ。(P.408)

本書の核となる提言というのはこうだ : 「製品の品質に最終的な責任を負うのは操作デザイナーであるべきだ。」(P.434)


やや、「デザイナー vs プログラマー」的な対立軸で語られ過ぎなきらいもありますが、ユーザー (のゴール) をまずは意識し、作り手側の都合よりもユーザーの課題解決を優先しようというクーパー氏の主張は、今読んでも色褪せない考えかただと思います。UI デザインにおける普遍的な価値観として、立ち返るひとつのよりどころにしたいものです。